防災女子力UPセミナー受講記(2)

多様な専門機関、専門家、ボランティア等との連携が、なぜ必要なのか(2)

3月11日午後2時46分。富岡町は震度6強の地震に遭う。そして21.1メートルの津波。富岡駅は倒壊し、道路もところどころ陥没。10数億円の費用をかけて造られた下水道はめちゃくちゃだ。福島第一原子力発電所の事故による放射線流失により、高い放射線値を示す土地。その土地を除染さえすれば、ふるさとに帰れるのか。 放射線値が下がれば、人々はふるさとに帰れるのか。

 

いや、そうではない。道路が復旧し、下水道が通り、人々が住む家がなければ帰ることは不可能だ。ではインフラが整備されればふるさとに戻れるのか。いや違う。復興の主人公は「人」である。ただ夢を語るだけじゃない。復興に向けて歩み出す気持ち、前を向く決意。それが復興へとつながるのだ。

 

「人が死ぬかも知れない」震災後、天野氏は県庁運営支援チームとして、相馬市にある避難所に入っていた。その後県庁に呼ばれる。福島県は4月11日、郡山市にある県の施設「ビックパレットふくしま」に県庁運営支援チームを派遣した。現地についたとき天野氏が見た光景は、無表情のまま、ただ寝ている人たちの姿だった。「人間は弱くてもろい」彼はその時に思った。しかし、それは間違いだったことをのちに彼は知る。

 

ビックパレットふくしまに入るとすぐに、天野氏のもとに避難所の女性たちが訪れた。「私たちは避難所にいて恥ずかしい。着替える場所がないんです」老若男女の差なく、入った順番に入れられた避難所。避難スペースは長さ2メートル、横1.5メートル、約50センチのダンボールのついたての中にできた3平方メートルほどの大きさだ。個人のプライバシーはないに等しい。

 

震災直後、この建物に入った避難者の数は約2,500人。天野氏が入った4月11日当時で1,800人だった。 4月17日に県庁避難所運営支援チームが女性の専用スペースを設置。23日より、福島県男女共生センターが運営支援を開始。その後女性支援関係の専門団体3団体が運営に参画した。女性の個室問題は、数多く出てきた問題の一例にすぎない。

 

天野氏はいう。「私自身、避難所に入った当時の記憶が、ところどころ途切れています。無我夢中という言葉は似つかわしくない。毎日のように発生する問題を解決していくだけで精一杯だった」と。

 

避難所で起こる問題は、すなわち人権問題だった。その一つ一つを素早く解決する。そうしないとどんどん問題がふくれあがっていく。天野氏の記憶が、ところどころ途切れているのは、そのような毎日だったからである。解決の早さは、県庁運営支援チームの力だけではない。問題にぶつかったとき、その問題の専門家の協力を仰いだからだ。女性専用スペースにおける、女性団体の協力がそれにあたる。この協力体制は、実は日頃のネットワークから生まれた。

 

いざ、問題が起こったときに、どの機関につなげるか。誰の協力を仰ぐと早いか。私たちはそれを知っておく必要がある。そして非常時に備えて、もう一つ必要なこと。それは日頃の備えだ。震災に対して、どう備えるか。自分が勤務する職場、あるいは公共施設における非常時に対する備えを、シュミレーションしていくことが大切なのだ。